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<それぞれの京都>

日本の旅情報を紹介しています。このページは「歴史都市京都」男の京都の楽しみ方を追求します。



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<それぞれの京都・京都の楽しみ方>

★男の京都


2.男の京都<歴史を学び現在・未来を考える> 歴史を考えより良い未来を進む
 
(1)戦乱の室町を訪ねて現代の戦いを知る


応仁の乱(旧跡地図<小川児童公園>)
細川殿(存在した場所)、山名殿(現状石碑)、花の御所 他
            
①応仁の乱(おうにんのらん)
 室町時代の応仁元年(1467年)に発生し、文明9年(1477年)までの約11年間にわたって継続した内乱です。
室町幕府管領家の畠山氏、斯波氏の家督争いから、細川勝元と山名宗全の勢力争いに発展し、 8代将軍足利義政の継嗣争い等複数の要因にがありました。室町幕府管領家の細川勝元と山名持豊(出家して山名宗全)らの有力守護大名が争い、各勢力の自己の利により複雑な戦況となり、一部の地方を除く全国に拡大しました。
乱の影響で幕府や守護大名の弱体化が加速化し、戦国時代に突入するきっかけとなりました。
十数年に亘る戦乱によって、主要な戦場となった京都は灰燼と化し、ほぼ全域が壊滅的な被害を受けて荒廃した。
<明応の政変(明応2年(1493年))以後を戦国時代とするのが現在では有力な説となっている。>

②「百々橋の礎石」(現地標識説明より)         
 この石は「応仁の乱(1467年~1477年)の戦場として歴史に名をとどめる「百々橋」の礎石の一つである。
百々橋は当地を南北に流れていた小川に架かっていた橋(長さ約7.4メートル、幅約4メートル)で、
橋名は応仁の乱以前の風景を描いたといわれる「中昔京師地図」に当地が「百々の辻」と記載されている事に由来すると伝えられている。
応仁の乱の際 東軍(細川勝元)と西軍(山名宗全)の両軍が、橋を隔てて数度にわたり合戦を行い、
この橋に戦国乱世の歴史の一こまが刻まれる事と成った。        
  「応仁の乱」により京都は「灰燼」になったと言われ、それ以前の京都市街地の建造物は、
消失し現存する文化財は少ないと言われる。
 「百々橋の礎石」は当時をわずかに伝える足跡である。
    
百々橋の礎石(どどばしのそせき)<寺之内通小川> 千本釈迦堂(柱の刀傷)

  
③歴史を見て現代の戦いを考える
a.「応仁の乱」では、当初の戦いの中心であった、細川勝元と山名持豊の勢力結局は後継で和睦し、足利11代将軍以降衰退しています。
b.戦国時代も戦いが多いように見えますが、戦略を考え必ず勝てる戦いと和睦を行い、負ける戦いを避けた秀吉、戦いが余り巧くない家康は根回しを先に行い関が原を勝って、生き残って最後に天下を取っています。
c.戦乱の歴史に見る、戦った者の利益
 第二次世界大戦でも、日本は戦いを選びましたが、立ち直り不可能かと思える危機的状況になりました。
 歴史を見ず、戦略なき安易な戦いだったのです。
 戦えば勝っても犠牲は大きいのです。最後に利益を得ているのは、実力を蓄え和睦優先し戦いを選ばなかった者が多いのは歴史が物語っています。


(2)慈照寺(銀閣寺)
 
観音殿(銀閣)
建立は1482年室町時代八代将軍足利義政公による
祖父にあたる三代将軍足利義満公にならい、隠栖生活を過ごすため山荘東山殿(東山慈照寺の発祥)を造営

(3)慈照寺(銀閣寺)から「哲学の道」を歩き人生を考える<男の隠れ旅>
 西田 幾多郎(にしだ きたろう、1870年6月17日(明治3年5月19日) - 1945年(昭和20年)6月7日日本を代表する哲学者)
がこの道を散策しながら思索にふけったことからこの名がついたと言われる。
「思索の小径」と呼ばれていたものが、いつしか「哲学の道」と呼ばれるようになったとされており、1972年(昭和47年)に正式な名称となった。
日本の道100選にも選ばれている散歩道である。
西田が詠んだ歌「人は人 吾はわれ也 とにかくに 吾行く道を 吾は行くなり」の石碑が、道の中ほどの法然院近くにある。           
             
 
   「哲学の道」              

①アベノミクスで景気回復が試みられるが、給与アップや利益アップとはまだまだ行かない不景気なこの時代、
 思い悩まれる事も多いサラリーマン、自営業者、等も多い事と思われる。
この哲学の道を歩き何か将来に対するヒントを得られようとの思考しながら歩くのも良いでしょう。

②西田が詠んだ歌「人は人 吾はわれ也 とにかくに 吾行く道を 吾は行くなり」は、
他に惑わされず彼は彼なりの独自な生き方見つけたかったのでしょうか?
それとも他人は客観的に全てを分からないで発言するもどかしさを表したかったのでしょうか?
哲学を志し、全てを理論的に解決できて居たように考えてしまうが、
若い頃彼自身は苦難に遭ったときは海に出かけることで心を静めたという。
そういった繊細な心が哲学にも必要だったのかもしれません。
世俗的な苦悩からの脱出求めていた彼は、高校の同級生である鈴木大拙の影響で、
禅を打ち込むようになる。20代後半の時から十数年間徹底的に修学・修行した。
「悟りは常に却下にあり」(却下照顧[きゃっかきょうこ])は私なりの解釈では
悟りは自分の経験の中にある、自分以上に他人は自分を理解し得ない、
他人は他人の経験で物事を推測判断し発言をするが、
自身と一致した経験の接点は、自身以上に持っていない。

西田は「人は人 吾はわれ也 とにかくに 吾行く道を 吾は行くなり」と言う言葉に脚下照顧の意味を
オーバーラップさせてに著わしたのではないかと思われる

(4)平安神宮
 
夏越の大祓に向けて、応天門に茅の輪が設置されました(6月) 平安神宮

京都のおや神さまである桓武天皇と孝明天皇を祀る。
明治28年(1895)創建。
京都三大祭の時代祭は、平安神宮の祭礼です。




(5)京都らしさの京町屋
  


①祇園花見小路      ②祇園白川

③花見小路から古門前町辺り

(6)京の花街とは
 上七軒、祇園甲部、祇園東、嶋原(京都花街組合連合会を脱会したため「京都の五花街」には含まれない)、先斗町、および宮川町の6つの花街があり、これらを総称して京都の六花街と呼ぶことがある。
 
上七軒 辺り 2013年2月、上七軒通電線地中化工事が完成、常夜灯を設置した石畳風舗装の道路に生まれ変わった
            
(7)市街地の「京の造り酒屋」を訪ね、京とお酒、二倍楽しむ
 
 京都は都として生活に必要な地下水がよく出て、平安京1300年の歴史を刻む要素が備わっていたと言えます。
 造り酒屋を営むにも良質な井戸水が必要です。今は伏見に酒蔵が多いですが、室町時代には京都市街地に300件以上の 酒蔵があったといわれています。
 今は2件京都観光などの際にお立ち寄りください。
  
松井酒造株式会社
 若女将さんブログ
  原酒おいしかったですよ!           

佐々木酒造株式会社
  俳優の佐々木蔵之介さんの実家です   
  場所は京都二条城の北側(丸太町通り北100メートル日暮通上る)です!
   こちらも原酒おいしかったですよ!
 
佐々木酒造さん


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①女の京都<心癒す旅>
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②男の京都<歴史を学び今日明日を考える>
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③友と楽しむ京都、恋人たちの京都
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④鉄男、鉄子の京都の楽しみ方
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⑤行って楽しめる祇園
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⑥彩る紅葉特集
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作成2013.09.23 更新2021.02.11


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